VIRGIN TRIUMPH | 1950-70年代 Vol.02 トライアンフ ヒストリー

1950-70年代 Vol.02

ユニットエンジンと
ボンネビルの登場

トライアンフヒストリーの画像

T120 ボンネビル(1959)

1957年は、トライアンフのエンジンに、大きな変更が行われた年として記憶されている。この年にデビューした3TA-21は、初のユニットコンストラクション・モデルだった。それまでのトライアンフは、エンジンとトランスミッションが別体になっており、ユニットエンジンは、それらを合体してひとつにしたものだ。これ以降のトライアンフは、徐々にユニットエンジン化されていく。エンジンとトランスミッションが別々だった時代のモデルを「プレユニット」と呼び、ユニットエンジン搭載モデルと区別される。

そして1959年、トライアンフの堂々たるフラッグシップ・モデルが登場する。その名は『T120ボンネビル』。トランスミッション別体式のプレユニットで、排気量650ccの2気筒エンジンは、『T110』のエンジンをベースに改良したもの。アルミのシリンダーヘッドにツインキャブレターをセットし、ハイカムやスリックシフトなど、かなりレーシーな市販車となっていた。

トライアンフ史上最も成功したこのモデルの名は、最高速度記録挑戦が行われる、ボンネビル・ソルトフラッツにちなんで命名された。ボンネビルのエンジンを搭載したストリームライナーによる、最高速度記録チャレンジも行われ、1962年に361km/hを達成している。そしてT120はエドワード・ターナーがトライアンフ在籍中に生み出した、最後のモデルでもあった。

トライアンフの栄光を脅かす
日本製モーターサイクル

1960年代に入ってもトライアンフの進撃は続いた。世界最高速度記録の挑戦と達成に平行して、さまざまなレースでも活躍。1966年のフロリダ州デイトナのレースでは、4台の『タイガー100』を投入し、見事優勝。その後も毎年のように好成績をおさめ、それを祝い『T100 デイトナ』が発売された。

トライアンフヒストリーの画像

デイトナで勝利したT100

市販車のトロフィーやボンネビルなど、ユニット化されていなかったモデルも含め、すべての車種でユニット化への変更が、1963年までに順次行われた。アメリカでは西海岸、東海岸それぞれのユーザーに向けた、東西で仕様の異なるモデルを発売。ストリートを走ることを前提としたスポーティな仕様のモデルに加え、オフロード走行に特化したスクランブラーモデルも人気だった。販売も好調で、アメリカ市場での成功はトライアンフに大きな利益をもたらし、トライアンフはこの世の春を謳歌する。

しかし栄華の裏では、新たなるライバルが世界市場へ進出し、これを席巻しようとしていた。それは躍進めざましい日本製モーターサイクルだった。エドワード・ターナーは日本メーカーの驚異的な成長と世界市場への進出を敏感に察知し、1960年に来日。スズキ、ホンダ、ヤマハの工場を視察して回った。そこで彼が目にしたのは、トライアンフを遙かに凌ぐ、効率的な生産体制と勤勉な労働者が生み出す驚異的な生産台数、そして高度に管理された品質だった。

トライアンフヒストリーの画像

ホンダ工場を視察訪問したエドワード・ターナー(1960)

日本製のモーターサイクルは、近い将来欧米メーカーの強力な敵になる…ターナーは危機感を抱き、レポートをまとめた。しかしBSAグループの経営陣は、まだ小型車が多くを占めていた日本のメーカーをあなどり、ターナーの報告書が活かされることはなかった。

ターナー、サングスターの引退と
トライアンフの凋落(ちょうらく)

ターナーと共にスピードツインの開発に携わった後、アリエルに移籍していたデザイナーのバート・ホップウッドがトライアンフに戻ってきたのは1961年。ジョン・ヤング・サングスターが同年にBSAグループを辞職し、ターナーは1964年にトライアンフを退社した。ターナーはBSAに移籍して手腕をふるい、1967年にBSAを辞め、引退している。

それからわずか1年後の1968年、日本のモーターサイクルメーカー、ホンダが精密機械のような4気筒の大型モーターサイクル『CB750フォア』を発売。ターナーの危惧は的中し、CB750は最速の市販車という称号を得て、世界中でブームを巻き起こした。トライアンフも座して待つだけではなく、ホップウッドを中心に排気量750ccの3気筒エンジンを搭載した『トライデント』を開発。1967年にホンダに先行する形で発売したが、世界的なホンダ人気に対抗することはできなかった(その後、ターナーはBSAを辞めて引退した)。

トライアンフヒストリーの画像

トライデントのレーサー(1970年代)

トライアンフヒストリーの画像

トライデントのレーサー(1973)

そして1960?80年代にかけて、安価で性能の良い日本車を大量に輸出する日本メーカーが、世界市場で欧米のメーカーが持っていたシェアを次々に奪取していく。

サングスターが会長を務めていた時に、BSAグループは過去最高の利益を上げていた。しかし、彼とターナーがグループを去ってから、販売台数は落ちていった。経営陣を占めていたのは、ビジネスマンとしては優秀で経歴も素晴らしい人達だった。しかし、モーターサイクル畑の人間ではなく、モーターサイクルとライダーについては素人であった。彼らは、とにかくアメリカ市場へ大量の製品を輸出し、日本のメーカーに浸食されたシェアを取り返そうとするが、大量の在庫を抱えることになってしまう。やがてBSAグループの損失は巨大なものとなり、労働者によるストライキが頻発して生産効率と品質が低下。1970年代に入ると、イギリスのモーターサイクル産業は危機的な状況に瀕していた。

新会社NVTが
政府の意向を受けて設立される

1973年、巨額の負債を抱えたBSAグループは破綻し、BSAグループ傘下だったノートンとBSAが合併する形で、新会社『NVT』(ノートン・ヴィリアース・トライアンフ)を設立。同年、トライアンフを世界的なメーカーに押し上げた、エドワード・ターナーが死去。その死は、トライアンフの栄光の時代が終ったことを告げたかのようだった。

NVTの設立は、イギリスのモーターサイクル産業をなんとか存続させようという、英国政府や経済界の意志に基づいていた。トライアンフは労働組合が自主的に生産を続けていたが、NVTの設立と共にメリデン工場は閉鎖され、生産がストップ。労働者たちはその後も政府に働きかけ、トライアンフの象徴であったバーチカルツインエンジンの、大型モーターサイクル生産の継続を訴えた。この運動は成果をあげ、政府から資金を借りて生産を継続できることになった。

トライアンフヒストリーの画像

メリデン工場が閉鎖されBSAの工場で生産されるトライデント(1974)

労働組合は『メリデン・コーポレーティブ』という会社を設立し、1975年から『T140V』、『TR7RV』の750ccモデルに限定して生産された車両は、工場の名を取って“メリデンモデル”と呼ばれている。トライアンフが有していた資産や様々な権利は、1977年にメリデン・コーポレーティブへ譲渡され、同年トライアンフ、BSAグループで活躍したジョン・ヤング・サングスターが死去している。

1973年に勃発した第4次中東戦争の影響で石油価格が暴騰し、“オイルショック”による世界的な不況も続いていた1970年代後半、トライアンフは伝統の灯をなんとか点しつつ、1980年代を迎えようとしていた。

こちらの記事もオススメ!

注目のアイテムはコチラ

フリーマーケットでトライアンフのアイテムを探す