VIRGIN TRIUMPH | 2-3 アメリカで大成功したトライアンフ 立花 啓毅さんのコラム

2-3 アメリカで大成功したトライアンフ

  • 掲載日/2015年04月03日
  • 文/立花 啓毅(商品開発コンサルタント)

エドワード・ターナーは、優秀な設計者であると同時に洞察力にも長けていた。終戦直後に彼が訪れたアメリカは、ヨーロッパや日本とは違い戦争の被害を全く受けず、活気に満ち溢れていた。

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私もこの少し後にシカゴからフロリダまで大陸を縦断したことがある。日本ではまだ今日の飯もままならない時に、肉汁のしたたるハンバガーをかじり、ロックンロールのリズムに乗ってアメリカ中が華やいでいた。女の子たちのペチコートで整えられたカラフルなスカートがジルバのステップで丸く広がり、目にまぶしかったことを覚えている。

ところで、ターナーは女の子ではなく、フリーウェイを走る2輪車を見ていたようだ。そこには340kgもあるハーレーしかなかった。そこで彼は、運動性能が高く鮮やかなカラーリングに仕立てた『スピードツイン』を送り込めば、必ずや成功すると考えた。

西海岸は陽の光が強いため鮮やかなカラーが綺麗に見える。当時の英国車は黒一色だったが、彼は黒のフレームはそのままに、タンクとフェンダーをアイボリーに塗り、アクセントカラーに爽やかなブルーを配した。そこに細いゴールドのラインを入れて全体を引き立たせたのだ。

彼の考えは的中し、全米で注目を浴び、大成功を収めた。そのトライアンフの成功に追随し、他の2輪、4輪メーカーも米国輸出に力を注ぐようになった。代表例がBSAであり、クルマではMG、トライアンフ、ヒーレー、ジャガーEである。英国はこの対米輸出によって、戦後経済が大きく潤った。

英国車が大量に輸出されるようになったきっかけは、第2次大戦にあった。米兵が連合軍としてヨーロッパに渡ると、そこにはアメ車のような大きな図体ではなく、小粋で可愛いクルマやバイクに溢れていた。それはヒーレー・スプライトやMGで、彼らはその虜になってしまった。

長い戦争が終わり、彼らが帰国する際、気に入ったクルマやバイクも一緒に本国へ持ち帰ったのだが、そのほとんどが英国車だった。ドイツやイタリアにも小さなクルマはあったが敵対国で、英国はアメリカの同盟国だったのだ。その後、ターナーの市場調査などもあり、広大なアメリカに英国車がまたたく間に広がった。言い方を変えれば、派手なトライアンフとジャガーは、アメリカ人が好む英国らしさを演出したものと言える。

日本にも、アメリカと同様に多くのトライアンフとBSAが輸入された。同じ英国車でもマチレスやベロセットより親しみを感じるのは、きっとそのためだろう。また、50年代の日本のモーターサイクルメーカーは、英国車を手本にしたところが多かった。例えばキャブトンRBHはアリエル・ハンターを、同じくキャブトンVB1は、アリエルVBをコピーし、名前まで同じものを使用している。高性能なホスクもそうだし、モナークはベロセットそっくりさんだ。有名なところではメグロK1(後のカワサキW1)はBSAのA10である。このように日本のバイクは英国車の影響を大きく受けている。それはクルマも同様だった。 

話を戻そう。世界的に大成功を収めたトライアンフだが、じつはこの大成功の裏で倒産の危機にさらされていた。第1世代の単気筒トライアンフは魅力に欠け、販売が低迷し、経営が悪化。そのため2輪車部門を閉じ、自動車生産一本に絞るという決定が1935年になされていた。その決定を覆したのがアリエルの救世主だったジョン・ヤング・サングスターである。彼はパートナーにエドワード・ターナーとヴァル・ペイジを招き入れ、この3人の頭脳が第2世代のトライアンフを作った。

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もし決定通り2輪から撤退していたら、スピードツインはおろかトライトンも生まれず、その後のヤマハXS650もホンダCB750も誕生しなかったに違いない。

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